泉宜秀君のお父さんの「私の気持」

私の気持ち

 私は、泉宜秀の父です。私の家族は、私、妻の千年、娘の裕子、そして、この度交通事故で死亡した宜秀の四人です。家族全員、ろう者です。ろう者というのは、耳が聞こえない人で手話を第一言語とする人をいいます。耳が聞こえない人の中にも手話を使わない人や手話ではなく日本語を第一言語とする人もいますので、私たちは、無意識的ではありますが、その人たちと区別するために、「ろう者」という言葉を使っています。家族全員ろう者でしたので、言葉の面で不自由を感じることなく、手話でにぎやかに話し合っていました。

 このたび、息子の泉宜秀が交通事故で死亡したので、私の家族全員は悲しみでいっぱいです。

 宜秀の生い立ちについて申し上げます。

私たちは、大阪府和泉市伏屋町に住んでおりましたが、宜秀は、一九七四(昭和四九)年四月四日に長男として生まれました。私が三六歳のときです。宜秀は、初めての男の子でしたので、私たちは、宜秀を非常に大切に育てておりました。将来は、家を継がせたいと考えておりました。

 妻が、宜秀が一歳半になったときから小学三年ころまでの間、宜秀を大阪府立堺ろう学校に毎日連れて登校しておりました。そして、ろう学校で、妻と宜秀が一緒に授業を受けておりました。ろう学校は、幼稚部から高等部まであります。ろう学校は、幼稚部から小学部低学年のころまでは、母と子が一緒に授業を受け、母が自宅に帰ってから母が学校の授業の内容を繰り返して子に言葉などを教えるというような形になっています。ろう学校への行き方ですが、自宅から近くの泉北高速鉄道の泉ヶ丘駅までバスで行き、同駅から泉北高速鉄道、南海高野線に乗り、三国ヶ丘駅で乗り換えて、JR線上野芝駅まで行き、同駅から徒歩二〇分でろう学校まで行ったのです。一時間半位かけてろう学校まで宜秀を連れて登校したのです。この方法だと一時間半もかかり、大変なので、その後、妻は、宜秀が四歳(幼稚部)のころ、自動車免許を取るために自動車教習所に通いました。他の子は、母親が一緒だったのに、宜秀は、妻が自動車教習所に通っている間、一緒に授業を受けられなかったので、宜秀はおそらくさみしい思いをしていたと思いますが、宜秀は、そのような様子を見せず、妻が宜秀を学校まで送った後自動車教習所へ行くとき、宜秀は、「一人でもがんばるよ。バイバイ。」といい、妻が自動車教習所から学校へ戻ると、宜秀は、「ぼく、がんばりました。」と言ってくれたそうです。本当にけなげでした。妻は、自動車免許を取った後は、自動車で宜秀をろう学校まで連れていったのです。電車だと何度も乗り換えしないといけないのですが、自動車だと、直線でろう学校へ行けるので、三〇分で済んだのです。毎日、八時頃家を出発してろう学校まで行き、午後二時にろう学校を出ると言った毎日でした。

 宜秀は、堺ろう学校で、とても明るく元気で、たくさんの友人に囲まれてすくすく育ちました。坂口公将君も、宜秀の同じ学年で、幼稚部から高等部を卒業するまでずっと一緒に学びました。
 宜秀は、学校では、数学、社会が得意でした。また、宜秀は、中学部、高等部で生徒会長を務めました。人望があったようです。会長として、他の生徒に対して、学校の校則を厳しく守らせていました。

 また、宜秀は、スポーツ万能で、体育で好成績を修めるとともに、部活でも、陸上で活躍し、近畿地区のろう学校中学部あるいは高等部の生徒が集まって行われる陸上大会に出場して優勝したこともありました。それから、宜秀は、スキー、サーフィンなどについても、他の人から教わるとすぐできるようになるほどで、スポーツの習得、上達が早かったです。今年の一〇月一日には、国内のトライアスロン競技大会に出場する予定でした。自転車のヘルメット、自転車用手袋、ウエアーなどが新品のまま残されていたのです。
 高等部普通科を卒業した後、宜秀は、一九九三(平成五)年四月、大阪のミズノ会社へ就職しました。宜秀は、大阪市住之江区にある同社の本社総務部に所属し、同社で一生懸命働いていました。
 しかし、宜秀は、中学部のときから地元の手話サークルに通い、手話指導の手伝いをしていたのですが、この関係からか、高等部三年のときに、滋賀県で行われたデフ・ファミリーのつどい(ろう者の両親を持つろう者のつどい)に実行委員になることとなりました。このつどいで、宜秀は、社会のろう者に対する抑圧と戦ってさまざまな活動を展開している人々と出会いました。これがきっかけで、宜秀は、ろう者は社会からいろいろと抑圧されていることに気づき始め、自分もなにか行動を起こしたいと考え始めたようでした。宜秀は、仕事を続けるべきか、やめるべきか、悩みました。私に相談したこともありました。私は、本当は、宜秀は大切な後継ぎなので、宜秀がずっと大阪にいてくれることを願っていました。しかし、私は、宜秀に対し、宜秀が勉強をしたいというなら宜秀の希望どおりにがんばってほしいと言い、宜秀も、やはり、抑圧されているろう者の立場を変えたいと決心し、ついに一九九四(平成六)年三月、ミズノ会社を退職しました。

 そして、ろう者の社会的地位の向上のためにはどういうことが必要かを学びたいと思い、ろう者の社会参加としては世界的に最も進んでいる米国へ渡って、同国にあるろう者のための総合大学ギャローデット大学(ワシントンDC)の付属施設ELI(English Language Institute)へ二年間留学しました。宜秀は、ELI及びギャローデット大学の人々と積極的に関わりを持ち、また、同大学の教授たちから、ろう者に関していろいろなことを学んでいくうちに、ろう者の地位向上のためには、ろう者が日常使用している手話(日本語とは異なる独自の文法を有する手話のこと。「日本語対応手話(日本語と同じ文法で話される手話)」との対比から「日本手話」と呼ばれている。)を普及させていく必要があると気づき、特に手話指導技術を一生懸命勉強しました。

 私は、宜秀が日本に帰国したら、大阪に住んでくれるものと期待していました。しかし、宜秀は、一九九六(平成八)年に帰国したのですが、友人からいろいろとお願いされて、そのまま東京に住み、CS放送会社に入社しました。CS 放送会社は、ろう者を対象とするろう者専門のCS放送会社です。宜秀は、同社で、キャスターとして活躍しました。ろう者にとって必要有益な情報をろう者に知らせたり、社会的に活躍しているろう者を紹介したりして、ろう者のためになる番組にしてくれました。
 同時に、ろう者が日常使用している手話である日本手話を聴者(耳が聞こえる人のこと)に普及させるために、手話教師として活躍を始め、埼玉福祉専門学校で非常勤講師を務めたのをはじめ、株式会社ワールドパイオニア主催の手話寺子屋などいくつかの手話講座を持っていました。
 宜秀は、日本手話の研究を一層深めたいと思い、一九九七(平成九)年、CS放送会社を退職し、国立リハビリテーションセンター研究所の研究助手になり、福田友美子先生のもとで日本手話の構造を研究しました。
 その後、昨年の一九九八(平成一〇)年四月に、デフトピアという喫茶店の店長にスカウトされ、同店で働き始めました。デフトピアというのは、ろう者のために設立された喫茶店で、ろう者が気軽に入れ、店内で気楽に会話できるように同店内では音声言語は禁止、会話手段は手話などの視覚言語だけ、という方針で店を運営しました。同店は、NHKのニュースに紹介されるなど、広く社会の関心を集めたようです。私も、NHKニュースで宜秀が活躍している様子を見て、私もうれしく思いました。

 この間の一九九八(平成一〇)年四月から一〇月までの間、日本福祉放送(JBS)の「がんばろうBOX」という番組の司会になり、また、一九九八(平成一〇)年度下期(一九九八(平成一〇)年一〇月から一二月)には、NHK三チャンネル「みんなの手話」の番組に登場して手話モデルとなり、手話の用語例を視聴者に示してくれていました。その他の時期にもNHK三チャンネルの同番組に出ていたと思います。
 その後、デフトピアは、残念ながら、一九九九(平成一一)年二月に、経営不振のため、閉店されました。宜秀も店長を辞職し、その後は手話教師に戻り、手話を聴者に普及させるための活動を始めました。

 また、ろう学校では、手話による授業がないため、ろうの生徒が先生の話を理解できず、学力が聴者に比べて遅れているという現象が何十年も前から続いているのですが、このろう学校による教育に満足できない人が、平成一一(一九九九)年四月、手話による学科教育を行うため、ろうの生徒のためのフリースクール「龍の子学園」を設立しました(一九九八(平成一〇)年から試行))。今までに五〇名のろう生徒が入園し、スタッフ三〇名ほどのメンバーで、手話による学科教育を行っています。宜秀も、一九九九(平成一一)年六月から、同園のスタッフとして加わり、多くのろうの子供に慕われていました。来年の夏に同園のキャンプが行われる予定ですが、宜秀は、その実行委員長に自ら立候補するなど、積極的に同園の運営に関わっていました。また、一九九九(平成一一)年九月七日には、二人の手話を知らないろう児童の家庭教師を受け持つ予定であり、この児童に対して手話を教えつつ学科も教えるという困難な試みにも積極的に関わろうとしていました。

 このような活動を通じて、宜秀は、ろう教育の在り方について深く考えるようになり、ろう教育の道に進もうと考え、東洋大学夜間部へ入学しようと決心して入学申込をし、その準備としての勉強を始めたところでした。
 また、宜秀は、一九九九(平成一一)年秋頃から日本福祉放送(JBS)の番組「がんばろうBOX」の司会に復帰することが予定されているなど、放送界での活躍も期待されていました。

 このようなときに、宜秀は、本件事故にあい、死亡してしまったのです。
 私は、宜秀が米国に行った後は、なかなか宜秀に会えませんでしたが、宜秀が時々大阪に帰ってきたときは、宜秀から、米国のろう者の状況、東京での手話研究の状況、ろう者の活躍ぶりなど最新の情報をいろいろと話してくれました。私は、今までそういう世界を知らなかったものですから、宜秀がこの話を熱っぽく話してくれ、私としては、いろいろと勉強になるとともに、宜秀がここまでたくましく成長したものだと思い、本当にうれしく思いました。また、NHK三チャンネル「みんなの手話」に宜秀が出るので、宜秀が活躍している様子を見て心から頼もしく思っていました。

 宜秀は、まだ二五歳なので、将来に対する夢をいろいろと持っていたはずです。私たちも宜秀が将来、いろいろな場面で活躍してくれることを期待していました。そして、いつかは大阪に帰って、家を継いでもらい、大阪で活躍してくれることを望んでいました。
 また、宜秀には婚約者がいました。来年ぐらいに結婚する、と言っていました。私は、宜秀に対して、「ちゃんと仕事を見つけてから結婚をした方がいい」と言ったこともありました。宜秀は、将来は、二人で大阪に帰って親と一緒に暮らす、と私たちに言っていました。私は、息子の結婚がみれなくて本当に残念です。
 私は、もう六一歳、会社を退職してもいい年齢ですが、宜秀がいろいろな夢にチャレンジできるよう、宜秀のために会社に残ることとしました。将来は、宜秀が大阪に戻ってきたら私は仕事を辞めて宜秀に養ってもらうつもりでいました。
 それなのに、本件の交通事故で、私たちの希望、宜秀の夢が一瞬にして失われてしまいました。二五年間、私たちは宜秀を一生懸命育てて来たのに、宜秀がたくましく成長してきたのにとおもうと、本当に無念です。また、宜秀のために会社に残ったのに、宜秀が突然死亡してしまい、何のために会社に残ったのかと思うと、働く意欲もなくなってしまいました。
 なぜ年よりの私が残り、若い宜秀が先に死んでしまったのでしょうか。私が宜秀に代わって車にひかれたかった。私の代わりに宜秀に生きてほしかった。このような気持ちです。
 宜秀の葬式には九〇〇人以上の人が出席してくれたとのことです。弔電もたくさん来て、大変驚きました。こんなに人望があったのかと思うと、とても残念な気持ちです。

 警察や検察のみなさんにお願いします。徹底的に捜査をし、裁判もしっかり進めてほしいと思います。

一九九九(平成一一)年九月二一日
               泉 等

更新日時 : 2006/08/24 14:23:34 +0900

目次に戻る